
20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。
KDDIの前身となる第二電電企画の立ち上げ以前、稲盛氏は救済合併により通信機器事業にこそ着手していたが、それもいまだ軌道に乗っていなかった。「飛び石」と言っても過言ではない通信事業への進出を決意した背景には、どのような事情があったのだろうか。
カンフル剤としての通信事業進出
稲盛は旧来、「飛び石は打たない」として、リスクを排するために既存事業、あるいはその延長線上でしか新規事業を展開してこなかった。なぜ、一足飛びに通信事業への進出を企図したのであろうか。そろばん勘定だけではない、やむを得ない事由があったのではないか。
この頃、稲盛は京セラの現状を危惧していた。前回紹介した3時間22分に及ぶ、1982年の経営方針発表で次のように述べている。
「マスタープラン(年間経営計画・目標)は作るけれども達成できないということが、過去数年ずっと続いておるわけであります。(中略)
今迄は目標を策定する時に、皆さんが萎縮したプランを作られるよりは、まだ、こうありたいという願望で作られる方がはるかに価値がある、と思っておりましたので、マスタープランが達成できなくても、あまりそれを問題化しておりませんが、このままでおりますと、皆さんの目標遂行能力、目的遂行能力というものが無くなっていくんではないか、もしくは、そういうことを繰り返すことによって、皆さんの目的遂行能力に対する自信というものを失わしめるんではないか、とこう思って、実は非常に危機感を持っているんです」(1982年1月13日 京セラ経営方針)